『さて数日前のコメントに、僕がペットの死をどのように乗り越えてきたかという質問がありました。
ありのままに答えたいと思います。
子供の頃はペットの死を嘆きましたが、死についての認識が変わってからは感傷的になったことはありません。
これはペットだけでなく、最愛の母を亡くした時も同じでした。
生きとし生ける全てのものは、一つの同じ命の現れであり、この一つの命は増えることも減ることもなく、永遠にいまここにあり続けていると確信しています。
このことを信じているというのではなく、太陽の存在を疑わないのと同じで、当たり前の事実として自らの中に定着しています。
愛するものたちは生前も自分の外側にいたのではなく、自分の内側に存在し、交流し、会話をしていました。
死んだ後も変わりません。
そもそも死んでいません。
死はこの世における最大の幻想です。
肉体と同一化した結果、そのような幻想を持ってしまったに過ぎません。
自分が身体なのだから、他の人や生き物たちも身体に違いないというわけです。
死は忌まわしいものではありません。
死が忌まわしければ生も忌まわしくなってしまいます。
なぜなら死と生は別々のものではなく、生死という一つのものの両側面だから。
コインの裏表と同じで、どちらか一つでは存在できないのです。
死についての理解が深まれば、我々の文明は一変してしまうことでしょう。
そもそも文明は死を遠ざけるために発展してきたと言っても過言ではないからです。
だから正しく理解するように努めること。
そうすれば個人レベルにおいても人生観が一変してしまいます。
その時初めて、自分の人生を生きられることでしょう。
あなたが大切にしていたペットも、体が朽ちた後も、それまでと何ら変わらずここに存在しています。
あなたの愛を感じながら。』
阿部敏郎さんのブログ かんながら
2021/9/9 の記事より
今までだって経験してきたはずなのに、
今回のくーとのお別れは、苦しすぎです。
あまりの苦しさに色々考えました。
今までは死ということに背を向けていたのだと思いました。
子供の頃の母の死、ここから、そうだったのかもしれません。泣いたことがなかったのですから、心に蓋をしていたのだと思います。
今回初めて、死というものに向き合うことができたのかもしれません。
向き合ったものの立ち直り方がわからないのだと思います。
阿部敏郎さんのこのブログにある表現が、今の私には、納得できるのです。
そうなんだろうと思えるのです。
まだ、頭の理解だけで、実感が伴ってるわけではないけど、
今もここに存在しているくーを感じたいのです。